竹内志朗資料館/テレビ編

はじめに

大阪テレビ放送は、 1956年に開局しました。

私の芝居仲間の先輩が「タケさん、けえへんか?」と声を掛けてくださったのが、開局前の6月でした。12月に開局なので、その半年前のことです。

「けど、私、今、サンPR工房に行ってますんで、すぐにはこれまへんで」と言いながら、結局は、サンPR工房と大阪テレビ放送の掛け持ちで行くようになりました。また一つ、仕事場が増えたのです。大阪テレビ放送でする仕事は、タイトルの文字を書くことです。

それまでにスライドの仕事や短編映画のタイトルの仕事はやっていたので、「けぇへんか?」と言われた時、即座に「文字を書きます。タイトルします」と答えました。

それまでにやった大きな仕事と言えば、四ツ橋にあった大阪市立電気科学館の台風の話のスライドの画や文字の仕事です。この仕事のときに一番困ったのは、「台風の目を描け」でした。今なら写真や映像が出ていますが、その頃は皆目分かりませんでした。

「あんなんや」「こんなんや」「台風は時計廻りの渦の巻き方をしていて、その中心は大きく雲がなく、まるで目を開けているみたいで青空が見える」と言われ、見たこともない物を想像して描きました。もし残っていたら「?」の画です。

こうしてスライド全編をつくりました。大阪の電気科学館では当時、星空を映す前に台風の話をしたのです。その時、大きな天丼に、私の描いた画や文字が映し出されていました。

日本生命の勧誘員さんの教修用スライドの仕事もしました。

スライドが一番伝達させるのに便利だった頃です。制作費用は映画なら高くつきますが、スライドはそんなにかかりませんし、映った画像に合わせて口や、録音テープで説明ができるのが良かったのです。その後VTRが普及するつい先年まで各社のスライドの仕事は続いていました。

↑ ページの上部へ