竹内志朗資料館/テレビ編

はじめに

母親が鶴橋にある印刷会社の社長さんのお母さんと友達でした。その社長さんの紹介で行ったのが日本精版印刷の中にあったサンPR工房という図案を書く会社でした。今でいうデザイン会社です。

サンPR工房に入れていただき、その頃はアルバイトというものがありませんでしたから、弟子入りみたいなものでしたし、給料はありませんでした。朝8時から夜7時頃まで、社員並みの就労時間の全日勤務で毎日働きました。先輩のみんなが師匠でした。特に室長の平賀先生が中心に動いていた所なので、師匠というのならこの人でしょうか。

交通費も始めは出ませんでした、弁当も自分持ちの状況で、仕事に行っていても一切お金が入ってこず、持ち出しだけです。

20代初めの頃のある日、突然、母親から「お前、いつになったら食べられんねん?」と尋ねられました。私の第一番の後援者は母親です。その母親にすれば、ずっと面倒みてやろうと思っていたと思うのです。「私の生きている間は食べさせるけれど、それ以後が心配やから」との思いが募って、私に聞いたのだと思います。

「40くらいかな」と答えた記憶があります。その時は、余り考えなかったけれど、本当に親に心配をかける、無茶苦茶な事を言ったと思っています。

今となっては、母親が長生きしてくれていたら、きつと私の舞台装置を観てくれていたでしょうが……70歳半ば近くまで病気を抱えながらも生きていてくれたから、ある程度は私の仕事も解ってくれていたと思っています。

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