竹内志朗資料館/テレビ編

はじめに

サンPR工房では「見て覚えろ」ということで、一切教えてくれません。今あるようなテキストとか、文字や絵の教科書は一つもなかった時代です。それで、新聞の見出しの活字を切り抜き、『あいうえお』順に貼っていきました。これには理由がありました。「活字を習とかなんだら、基本になれへん」と先輩方に言われたのです。

習うと言っても自分で覚えないと仕方がありません。独学で活字の練習となると新聞が一番です。新聞には、明朝体・ゴシック体・丸ゴシック体とありますから、各各を切り抜いて分類し、『あいうえお』順に貼つて、それを見ながら活字の勉強をしました。新聞の文字を切り抜いては、その通りに書いて、何回も書いて覚えていったのです。

一つの字の大きさが3センチ四方位。新聞の明朝体、ゴシック体の字を手書きでその通りに毎日書いたものです。私は、こうして色んな文字の練習をしましたし、今もやっています。人に勉強している姿を見られるのが嫌で、たいがい夜中に練習をしていました。

この道の勉強は多種多様で、色んな事をしないと駄目ですが、10代から始めた私の勉強法は、毎晩、主にひとつのことに集中し、その日のノルマを決めて何かを練習するというものでした。2年くらいは何も仕事はさせてもらえなかったのです。朝8時から会社に入ったのは、先輩7人の筆や、使った絵の具皿を洗うためでした。前の晩、みんながバケツに突っ込んで帰ります。その筆や皿を全部綺麗に洗い、仕事がすぐにできる準備をしておきます。

ケント紙に描くために水張りをして、用意しておきます。冬は暖房を入れて、先輩のみなさんが気持ち良くすぐ筆を執れるようにしておくのが、毎朝の仕事です。

これらを毎日、時には日曜日も行って、6年間続けました。その当時は、何にしろアルバイトというものがありませんでした。だからこそ、早く覚えることができました。早くお金儲けがしたかったから、その気持ちが励みとなって続いたのです。

会社としては私で間に合うので、別に人を雇う必要もありません。通い始めて3年目で、やっと交通費が支給されました。これは嬉しいことでした。

芝居の稽古のない日曜日にたまたま家にいると、NHKラジオから流れる松竹新喜劇の舞台中継の芝居を聞きながら、自分で大きな試作のポスターを描いたり、試作の表紙を描いたりしたものでした。藤山寛美さんを売り出す前の松竹新喜劇ですから、澁谷天外さんや曾我廼家明蝶さん、曾我廼家五郎八さん、浪花千栄子さんや宇治川美智子さんの頃です。とても人に見せられるものではありませんでしたが、芝居が好きだったから、ラジオから流れてくる芝居の様子をBGMに、懸命に描いていました。

劇場に行くときはスケッチブックを持って行き、芝居を観ながら、薄明かりの中でその舞台装置をスケッチしていました。パンフレツトは見辛いけれど、鉛筆の線ならうつすら見えますからね。そのスケッチブックは今はどこへ行ったのか手元にありませんが、やみくもに書いていました。それを参考にして、立体的に何でも模型を作って試してみたりしたものです。

サンPR工房の先輩たちはみんな良い人でした。親切でした。「(※)タケさんは芝居をしている」ということを理解してくれていましたし、こういう暖かさがある職場だったので、図案の基礎や、カラス回の使い方や、写植の切り張りの仕事、その他の多くの事を覚えて、続けてこられたのです。今もこの事は非常に有難かったと思っています。

仕事に対する辛さやストレスは一切感じません。練習していても楽しいのです。70半ばになった今も、未だに描くということに関しては、苦痛がなく、先ず楽しさが生まれてきます。

(※)タケさん一「竹内志朗」「竹内」と誰一人呼んでくれた人はありません。みんなが「タケさん」と呼んでくれていました。

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