竹内志朗資料館/テレビ編

はじめに

1956年12月1日、大阪テレビ放送が大阪の民間放送局として初めての電波を飛ばしました。

試験放送を通じて放送の「いろは」は色々勉強してきましたが、いよいよ本放送が開始されるとなると、やはり緊張します。

開局当時は、すべて生放送でした。現場はまるで戦場みたいだったので、どんな仕事をしたのか、全然党えてないのです。

当時の生放送は、朝10時にピアノやアコーディオンやハモンドオルガンで奏でるオープニングのメロディが卜3分くらい流れ、放送が始まりました。

映像は、スタジオで演奏をする人を映していました。それが終わって、お知らせなどがあって、12時から15分間ニュース。その後、昼の番組があって、午後1時半か2時頃終わりだったように覚えています。

大阪テレビ放送の夜の放送の時間は、夕方5時からでした。夜10時のニュースがあって、これが終わったら翌日の全番組の予告をして、10時半に終わるのです。その予告のテロップも、今番組分、毎日、30枚〜35枚は書きました。

予告のテロップには、番組名・時間 出演者・題名を書くのです。 ニュースの見出しタイトルを書くには、スピードが要求されます。

新聞の見出しで20文字くらいです。この20文字を、大体1分から90秒位で書かねばなりません。その位で書けるように早書きの練習をしました。

ニュースの時に書く字の大きさは、ヨコ7センチ×タテ5センチの四角に、1文字が7〜8ミリ程度。この小さい所に明朝の斜体で書いていきます。

当時、タイトル書き担当は7人でした、色んな番組のタイトルを書いていますが、ニュースの文字を書いていたのは、私と沢井君という同年代の2人だけでした。

タイトルを書く人のことを呼ぶのに、当時のテレビ業界での呼び名は、「タイトル」でした。 呼ばれるときは、「タイトルさん!」の一声です。

我々「タイトル」は、各番組の放送時間までに仕上げるために毎日が闘いでした。

生放送ではスタジオにセットを組んで3台のテレビカメラで撮りますが、カメラの移動に合わせて、カメラから副調室へつながっているケーブル線、これがまた太くて重いのですが、そのケーブル線をカット割りによってカメラがあっちこっちへ移動するのに合わせて、ケーブル線が交差
しないように捌く人がいました。いわゆる「捌き人」です。そういう人が、かつてテレビスタジオに必要だったことは、テレビ史の中に残っていないのではないでしょうか。今残っているのは、表面的なことだけです。

タイトルの手書きという我々の職業も、全身今霊を込めて勉強をしたけれど、写植、そしてコンピューターの登場で、30年足らずでパサッと終わってしまった職業です。

在阪のどのテレビ局でも開局の時は、必ずと言っていいほど私はかなりのテロップを書いて、開局の手伝いをしてきました。

大阪テレビ放送は、朝日放送と毎日放送の2つのテレビ局に分かれましたが、その時も毎日放送開局に合わせて、かなりの番組を書きました。それからしばらくして読売テレビ放送、関西テレビ、間をおいてテレビ大阪でした。これらの放送局の開局に合わせてその前後に、随分多くの番
組を書きました。

今や手書きは、『剣客商売』や『必殺シリーズ』のような、トップタイトル・サブタイトルだけです。今のディレクターさんは手書きの良さをもっと解ってほしいと思いますが、残念ながら手書きのタイトルを書ける人はもう殆ど残っていないと思います。

一緒に仕事をしていた7人の「タイトルさん」は、その後、無事に定年を迎えた人もいますし、私と同い年の人で早く亡くなつた人もいます。今、大阪テレビ放送出身で残っているのは、私だけです。

↑ ページの上部へ