竹内志朗資料館/テレビ編

はじめに

森徳良さんという先輩が居ました。今もお元気です。その人が写真の専門で、工房内に写真の暗室もありました。森さんは撮影をしたら自分で現像し、印画紙に焼き付けをしていました。それを見習って、私は写真を撮って、自分で現像ができるようになったのです。もちろん白黒写真です。のちにこれがTVのタイトルを書くようになって、随分と役に立ちました、森徳良さんありがとう!

後年、テレビが写植を導入した時に、誰も打つ者がいなかったので、「私がするわ」と言いました。良い意味での野次馬です。私は人一倍、野次馬根性が旺盛で、「何でも知りたい」と思うのです。知りたいから、「やつてみたい」と気持ちが動き、行動に移すのです。どんなことでも物にならないと、仕事に繋がりませんからね。

今の若い人は「一つしかできない」と言いますが、「そんなことない」と私は言うのです。どんなことでも、一所懸命にやったら、何通りでも仕事はできると思います。その仕事が大好きであれば―サンPR工房での6年間は現在の全ての仕事の基盤になりました。給料を貰っていなくて良かったと本当に感じています。もしも、給料を貰っていたら、私は勉強をしなかつたかもしれません。「ここは練習させていただける場所」と、そういう雰囲気の中に引き入れてくれた事に、深く感謝しているのです。

サンPR工房にいた6年間で、私が一番勉強になったのは、池田銀行の仕事です。池田銀行が29支店しかなかった頃ですから、昭和30年代後半だと記憶しています。全支店に、定期預金勧誘の6尺×3尺〈1尺は303ミリ〉の手書きの立て看板を、2ヶ月に一回ずつ手で書いていました。当時は、この大きさが印刷可能な機械はなかったのです。

ケント紙に色んな絵や文字を平筆などで、短時間で描いていきます、描くと、その上に透明のニスを塗ります。雨に濡れても大丈夫なようにですが、ビニールもない時代です。このような原始的なやり方でした。印刷ができたとしても、とても高価なものだったようです。

この頃は、銀行はどんな宣伝をしても大丈夫で、規制がありませんでした。そのためか電車の中吊りは銀行のポスターばかりという時代だったのです。「あれだけの量を、独りでよおやったな」と思うのですが、この仕事で、短時間で様々な文字を正確に書く力が養われ、後のテレビの世界の仕事に繋がっていったのでしょう。

サンPR工房に行く前から、あちこちの劇団や劇場の現場に行っていたので、工房での仕事は、芝居の活動と全く並行して動いていました。だんだん芝居に重きを置くようになっていきましたが、「サンPR工房に行かなあかん」と思い込んでいて、行くのは義務だと考えていました。こうした「時間がなんぼあっても足らん」の経験が、60数年間年中無休で仕事をしていることにつながっていると思っています。

そして、サンPR工房で6年目に入った頃、大阪テレビ放送ができる話がありました。

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