竹内志朗資料館/テレビ編

はじめに

舞台装置をしたいと思っても、芝居の世界の事など何も知らない家系でしたので、どうしたらいいのか分かりませんでした。

それで、高校2年生のときに天王寺区上本町九丁目汐町筋にあった関西芸術アカデミー(当時の名称は「関西演劇映画アカデミー」でした)に入りました。入ったら何か分かるだろうと思ったのです。

芝居を観ることには慣れていましたので、関西芸術アカデミーで最初に見た芝居そのものは、珍しくはなかったのですが、客席からの芝居しか観ていませんでしたので、裏方という仕事は知りませんでした。

ここで「芝居というのはこんなんか」と感じたのは、入つてからすこし経ってからでした。それまで無我夢中でした。

関西芸術アカデミーで芝居のイロハを教えて貰ったこと、芝居の勉強をさせて貰えたことに、「有難いな」と心から思うのです。感謝です。

筒井好雄先生と須藤圭子先生のご夫婦から指導していただきました。芝居を学ぶコースは、(実は役者を育てるコースしかありませんでした)2年間で終了でしたが、規制はありません。結果、入ってから相当長い年月を過ごすことになります。勉強の一環として、一流の講師に浄瑠璃、三味線、山村流の日舞も学びました。今の仕事に大変役に立っています。

ある日、筒井好雄先生が「劇団作るわ」と、劇団アカデミーを創設されました。以前からあった劇団を充実させたのです。

年2回〜3回公演を継続しておこなっていました。公演場所は、大手前会館や毎日会館で、ここで演出家の先生方や、舞台装置家も含め、色んな人との出会いがあったのです。

在籍していた初期の頃は、舞台装置を描くことはありませんでしたが、見よう見真似で『道具帳』を描くということを覚えていきました。

下手ながらの道具帳でしたけれど、必死になって描きました。

他の先生のを盗み見したりしましたが、先生方の『道具帳』は門外不出です。「どないしたら描けるやろ」と師匠がいない中、とにかく描きました。だから劇場に行ってスケッチするということになったのです。

舞台の裏を知って、より深く芝居にのめり込んでいきました。その頃は大阪市内もまだ演劇が盛んで、劇団も色々あり、どこも大入りでした。

私は劇団アカデミーとは別に「かもめ座」にも在籍していました。年何回もの公演をした劇団です。劇団員も多く、スタツフも充実していました。

ちょうどその頃でした。松竹株式会社の白井昌夫重役の肝入りで、新たに劇団が旗揚げされることになったのです。それが「新春座」です。参加する役者も多勢でした。その時に私も裏方として移りました。

「新春座」では、脚本が決まると、私が(※)ガリ版印刷で全ての台本を書きました。3本立てなら本とも私が書くのです、そして刷りです。

ここでポスターも、前ビラも描き、舞台装置も描き、舞台監督もしていました。

私は劇団アカデミーにも在籍していましたので、両方の劇団で同じ事をしていました。

ただ、この頃は『舞台装置』というしっかりした基本は、まだ身に付いていませんでした。が、色々と裏方の仕事を積み重ねていました。

(※)ガリ版印刷(謄写版印刷) 一蝋で加工した用紙をヤスリ状の上にのせ鉄筆で文字を書き、枠にはさみ、インクを付けたローラーで一枚一枚印刷します

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