竹内志朗資料館/テレビ編

はじめに

時代の流れの中でびっくりしたのは、カッターナイフとセロテープの登場です。初めて目にしたとき、「え〜っ!」と腰を抜かさんばかりに驚きました。

カッターナイフのない時代は、鋭角の所を切るときは、ペンナイフを使っていました。5ミリ角くらいの菱形の両刃の刃物があって、それをペン軸の先に付けます。刃物が物凄く小さいため、自分で油砥石で研いでおかないといけません。

写植の字はペンナイフでスーッと切って、印画紙の上の薄い膜をスーと剥がし、糊を付けてペタッと貼り付けるのです。のり貼りが分厚いと製版するときに明かりを当てるから、黒い影ができます。数ミリ角の字を曲がらずに貼るには、経験とコツも必要でした。

当時は活版印刷でしたので、大きさの違う活字を、全て人の手で一字ずつ拾っていたのです。だから一頁の活字を揃えるのに大変な時間と労力を要します。それとは別に、写真植字屋さんというのが独立して存在していました。そこで写植を打って貰って、図面などを書いた版下に貼っていきました。写植がなかった時代は、全部手書きか、活字を清刷りして貼り付けるかの方法でした。この頃の印刷は、今の多色刷りのような高度な技術ではなく手間がかかります。またお金も高くつきます。

レタッチという職業があって、画家が描いた画を反転でトレースをして、一色ずつ分解して、刷版に全部反対に描いていくのです。レタッチの人は、一色ずつ取りだして、「ではこの色と重ねたら、この色になるやろ」と考えて描いていたのを覚えています。版下の画を描く人は完璧な模写をしなければなりませんから、デツサンカがなかったらできないのです。色刷りが多い工程の場合は、浮世絵の版画を刷る時の版木くらい数が必要です。けれど普通印刷はそんなに手間を掛けられません。大体色刷りの原則が4色です。

余談ですが、なぜか製版の時に卵の自身が大量に必要でした。「食べなさい」と、しょっちゅう卵の黄身だけが職場にドカンと届くのです。黄身だけ食べるのは苦しく、玉子焼にしても余り美味しくありませんでした。カッターナイフとセロテープの出現は革命でした。セロテープが出てくるまでは、セメダインと普通の糊だけでしたから、私の仕事に超便利な製品でした。大きな物を切るときは片刃の剃刀を使いました。普通の両刃の剃刀よりも分厚く、縦2センチ少し、横3センチ位の四角形で、厚さは0.5ミリくらい。それを親指と人差し指に挟んで定規をあてて一気にスーツと切っていました。

それ以上の大きな物は、額縁のマットを切る小刀や『肥後守』を使ったものでした。しかしカッターナイフが出現して、一変しました。使い慣れない頃は、ちょっとした油断から、刃先が紙から手にそのまま走ってしまい、大怪我もしました。最初にセロテープとカッターナイフを見たのは、職場です。

「こんなん出た、出た!」といち早く情報が職場に入ってきます。「買え、買え!」と言うんで物珍しさと便利さとで、みんな、興奮しました。当時、セロテープは高価で、カッターナイフも安くなかったと思うのです。勿論、今のように湯水の如く使えません。

ケント紙など切るときにはカッターナイフは毎日役に立ちました。写植を切り貼りするのには、やはリカッターナイフは大きすぎてペンナイフの方が効率が良かったのです。サンPR工房の事務をしていた女性の人も、こういう写植の切り貼りの仕事ができないと務まりません。あの工房で働く人はみんな職人芸を持っていました。

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